コンテンツにスキップ

「沖原佳典」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m カテゴリの一部変更
 
(14人の利用者による、間の21版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Infobox baseball player
{{Infobox baseball player
|選手名 = 沖原 佳典
| 選手名 = 沖原 佳典
| 画像 = Y_okihara20140426.jpg
|所属球団 =
| 画像サイズ = 275
|役職 =
| 画像説明 = 楽天コーチ時代(2014年)
|背番号 =
| 国籍 = {{JPN}}
|選手写真ファイル名 = Y_okihara20140426.jpg
| 出身地 = [[愛媛県]][[松山市]]
|写真サイズ = 275
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1972|7|27}}
|写真のコメント = 楽天コーチ時代(2014年)
|月日 =
|国籍 = {{JPN}}
| 身長 = 177
|出身地 = [[愛媛県]][[松山市]]
| 体重 = 80
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1972|7|27}}
|没年月日 =
| 利き腕 =
|身長 = 177
| 打席 =
| 守備位置 = [[遊撃手]]、[[三塁手]]、[[二塁手]]
|体重 = 80
| プロ入り年度 = {{NPBドラフト|2000}}
|利き腕 = 右
| ドラフト順位 = ドラフト6位
|打席 = 右
| 初出場 = 2001年3月30日
|守備位置 = [[遊撃手]]、[[三塁手]]、[[二塁手]]
| 最終出場 = 2008年8月20日
|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|2000}}
| 経歴 =
|ドラフト順位 = ドラフト6位
|初出場 = 2001年3月30日
|最終出場 = 2008年8月20日
|年 =
|経歴 =
* [[愛媛県立西条高等学校]]
* [[愛媛県立西条高等学校]]
* [[亜細亜大学硬式野球部|亜細亜大学]]
* [[亜細亜大学硬式野球部|亜細亜大学]]
28行目: 24行目:
* [[阪神タイガース]] (2001 - 2005)
* [[阪神タイガース]] (2001 - 2005)
* [[東北楽天ゴールデンイーグルス]] (2005 - 2008)
* [[東北楽天ゴールデンイーグルス]] (2005 - 2008)
|経歴補足題 = コーチ歴
| 経歴補足題 = コーチ歴
|経歴補足 =
| 経歴補足 =
* 東北楽天ゴールデンイーグルス (2013 - 2014)
* 東北楽天ゴールデンイーグルス (2013 - 2014)
|代表チーム = {{Flagicon|JPN}} [[野球日本代表|日本]]
| 代表チーム = {{Flagicon|JPN}} [[野球日本代表|日本]]
|五輪 = [[2000年シドニーオリンピックの野球競技|2000年]]
| 五輪 = [[2000年シドニーオリンピックの野球競技|2000年]]
|WBC =
}}
}}
'''沖原 佳典'''(おきはら よしのり、[[1972年]][[7月27日]] - )は、[[愛媛県]][[松山市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]]、右投右打)・[[プロ野球コーチ|コーチ]]。
'''沖原 佳典'''(おきはら よしのり、[[1972年]][[7月27日]] - )は、[[愛媛県]][[松山市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]]、右投右打)・[[プロ野球コーチ|コーチ]]。
41行目: 36行目:
[[松山市立城西中学校]]から[[愛媛県立西条高等学校]]へ進む。2年生の時、[[三塁手]]として{{by|1989年}}の[[第61回選抜高等学校野球大会|第61回選抜]]に出場。1回戦で[[和田一浩]]のいた[[岐阜県立岐阜商業高等学校|県岐阜商]]を破るが、2回戦の[[龍谷中学校・高等学校|龍谷高]]に延長12回の末、敗れた<ref name=senbatu>「選抜高等学校野球大会65年史」毎日新聞社編 1994年</ref>。同年夏の[[全国高等学校野球選手権愛媛大会|愛媛大会]]では準決勝に進むが、[[宮下典明]]のいた[[新田高等学校|新田高]]に延長13回の末に惜敗。同年の秋季四国大会は準決勝で[[香川県立高松商業高等学校|高松商]]に9回サヨナラ負け、この大会の決勝でも新田高に敗れている。翌{{by|1990年}}夏の愛媛大会も準決勝で新田高にまたもや敗退、甲子園には出場できなかった。
[[松山市立城西中学校]]から[[愛媛県立西条高等学校]]へ進む。2年生の時、[[三塁手]]として{{by|1989年}}の[[第61回選抜高等学校野球大会|第61回選抜]]に出場。1回戦で[[和田一浩]]のいた[[岐阜県立岐阜商業高等学校|県岐阜商]]を破るが、2回戦の[[龍谷中学校・高等学校|龍谷高]]に延長12回の末、敗れた<ref name=senbatu>「選抜高等学校野球大会65年史」毎日新聞社編 1994年</ref>。同年夏の[[全国高等学校野球選手権愛媛大会|愛媛大会]]では準決勝に進むが、[[宮下典明]]のいた[[新田高等学校|新田高]]に延長13回の末に惜敗。同年の秋季四国大会は準決勝で[[香川県立高松商業高等学校|高松商]]に9回サヨナラ負け、この大会の決勝でも新田高に敗れている。翌{{by|1990年}}夏の愛媛大会も準決勝で新田高にまたもや敗退、甲子園には出場できなかった。


高校卒業後は[[亜細亜大学]]へ進学。[[東都大学野球連盟|東都大学リーグ]]では優勝に届かず、{{by|1993年}}秋季リーグの3位が最高成績だったが、同期のエース[[入来祐作]]を擁し[[遊撃手]]として活躍した。リーグ通算74試合出場で246打数70安打、打率.285、4本塁打、27打点。{{by|1994年}}春季リーグでは首位打者・ベストナインを受賞した。
高校卒業後は[[亜細亜大学]]へ進学。[[東都大学野球連盟|東都大学リーグ]]では優勝に届かず、{{by|1993年}}秋季リーグの3位が最高成績だったが、同期のエース[[入来祐作]]を擁し[[遊撃手]]として活躍した。リーグ通算74試合出場で246打数70安打、打率.285、4本塁打、27打点。{{by|1994年}}春季リーグでは首位打者・ベストナインを受賞した。3年後輩の[[井端弘和]]とも二遊間を組んだ。また4年秋は入替戦に敗れてチームが1部昇格以来初の2部降格で卒業となる。入来とともにドラフト指名候補ながら見送られる


卒業後は[[NTT関東硬式野球部|NTT関東]](後に[[NTT東日本硬式野球部|NTT東日本]]となる)に入社。エース[[立石尚行]]を擁し、[[小笠原道大]]とともに中心打者として活躍。{{by|1996年}}の[[第67回都市対抗野球大会]]には小笠原、立石とともに[[新日鐵住金かずさマジック|新日鐵君津]]の補強選手として出場。一番打者として起用され準々決勝に進むが、[[朝日生命硬式野球部|朝日生命]]に敗退した。この時のチームメートに[[松中信彦]]、[[森慎二]]がいる。{{by|1998年}}はNTT関東、翌年はNTT東日本チームの一員として都市対抗に出場する。1998年の[[第25回社会人野球日本選手権大会|日本選手権]]では決勝で[[日本生命硬式野球部|日本生命]]と対戦、9回裏に決勝打を放ち逆転サヨナラ勝ち、初優勝に貢献し優秀選手に選出されている。
卒業後は[[NTT関東硬式野球部|NTT関東]](後に[[NTT東日本硬式野球部|NTT東日本]]となる)に入社。エース[[立石尚行]]を擁し、[[小笠原道大]]とともに中心打者として活躍。{{by|1996年}}の[[第67回都市対抗野球大会]]には小笠原、立石とともに[[新日鐵住金かずさマジック|新日鐵君津]]の補強選手として出場。一番打者として起用され準々決勝に進むが、[[朝日生命硬式野球部|朝日生命]]に敗退した。この時のチームメートに[[松中信彦]]、[[森慎二]]がいる。{{by|1998年}}はNTT関東、翌年は統合されたNTT東日本チームの一員として都市対抗に出場する。1998年の[[第25回社会人野球日本選手権大会|日本選手権]]では決勝で[[日本生命硬式野球部|日本生命]]と対戦、9回裏に決勝打を放ち逆転サヨナラ勝ち、初優勝に貢献し優秀選手に選出されている。{{by|2000年}}の[[第71回都市対抗野球大会]]には、後にプロでチームメートとなる[[JR東日本硬式野球部|JR東日本]]の[[赤星憲広]](大学後輩)や[[プリンスホテル硬式野球部|プリンスホテル]]の[[伊達昌司]]とともに[[東京ガス硬式野球部|東京ガス]]の補強選手として出場。1回戦の[[日本生命硬式野球部|日本生命]]戦では先発の[[土井善和]]から本塁打を放つなど活躍した


後にプロでチームメートとなる[[JR東日本硬式野球部|JR東日本]]の[[赤星憲広]]らと共に{{by|2000年}}[[2000年シドニーオリンピックの野球競技・日本代表|シドニーオリンピック野球日本代表]](アマ16人、プロ8人で構成)として遊撃手スタメンなどで出場。グループリーグの韓国戦では[[鄭ミン台|鄭珉台]]から先頭打者本塁打を放った(シドニー五輪では2本の本塁打を放つ)。それを見た[[野村克也]]([[阪神タイガース]])は、沖原を完全に注目していなかったスカウト陣に苦言を呈し、自ら同年秋の[[社会人野球日本選手権大会]]を視察、スカウト陣とともに早期から着目していた赤星・[[藤本敦士]]と同様に獲得を決めた。沖原に関してはドラフト当日まで阪神が持っていた情報は少なく、日本代表の遊撃手であることを好意的に解釈し獲得に至ったことを[[野村克也]]が漏らしている。
赤星、土井らと共に{{by|2000年}}[[2000年シドニーオリンピックの野球競技・日本代表|シドニーオリンピック野球日本代表]](アマ16人、プロ8人で構成)として遊撃手スタメンなどで出場。グループリーグの韓国戦では[[鄭珉台]]から先頭打者本塁打を放った(シドニー五輪では2本の本塁打を放つ)。それを見た[[野村克也]]([[阪神タイガース]])は、沖原を完全に注目していなかったスカウト陣に苦言を呈し、自ら同年秋の[[社会人野球日本選手権大会]]を視察、スカウト陣とともに早期から着目していた赤星・[[藤本敦士]]と同様に獲得を決めた。沖原に関してはドラフト当日まで阪神が持っていた情報は少なく、日本代表の遊撃手であることを好意的に解釈し獲得に至ったことを[[野村克也]]が漏らしている。


[[2000年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|2000年度ドラフト会議]]にて、阪神タイガースから6位指名を受けて入団。社会人時代に結婚し、沖原のプロ入りに反対する妻を説得して、社会人野球の給料より安い年俸でのプロ入りだったという。
[[2000年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|2000年度ドラフト会議]]にて、阪神タイガースから6位指名を受けて入団。社会人時代に結婚し、沖原のプロ入りに反対する妻を説得して、社会人野球の給料より安い年俸でのプロ入りだったという。野村はかなりの年長での指名を生前気にしていたようであり、沖原本人は後に「現役時代はそんなことはなかったんですけど、僕が引退してからはお会いするたびに、“社会人ならば安泰だったのに、プロに誘ってすまなかったな”と言われました。亡くなる前年にご自宅にお邪魔したときにも、そう言われました……」と明かしている<ref name="syometsu">[https://number.bunshun.jp/articles/-/848511?page=3 ノムさん「プロに誘ってすまなかったな…」あれから20年、阪神・F1セブンの元メンバーが明かす“野村監督とのその後”(3/3ページ)] Number Web 2021/06/21 17:03 (2022年8月29日閲覧)</ref>


=== プロ入り後 ===
=== プロ入り後 ===
入団時の背番号は、日本代表でも背負った'''8'''だったが、{{by|2002年}}に[[片岡篤史]]がFAを行使して入団したため、'''5'''へ変更された。当初は[[野村克也]]が命名したF1セブンの一員として知られていた。なお、野村の著書『野村ノート』によると、決して沖原は決して速いほうではなかったが、セブンの語呂がよかったために一員に入れたと語られている。
入団時の背番号は、日本代表でも背負った'''8'''だったが、{{by|2002年}}に[[片岡篤史]]がFAを行使して入団したため、'''5'''へ変更された。当初は[[野村克也]]が命名したF1セブンの一員として知られていた。なお、野村の著書『野村ノート』によると、沖原は決して足が速いほうではなかったが、セブンの語呂がよかったために一員に入れたと語られている。因みに沖原は後年「F1セブンはいつ終わったのかはよくわからない」としつつも「F1セブン自体は野村さんが退団されたときに消滅した」と定義している<ref name="syometsu"/>


{{by|2003年}}には規定打席不足ながら打率.341の成績を残した。同年7月23日の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦(阪神甲子園球場)では、11回裏に[[石井弘寿]]からサヨナラ適時打を放つなど勝負強さを発揮した。この年は1番を打っていた[[今岡誠]]の離脱によって、1番・二塁手で先発出場することがあった。同年[[9月15日]]の対広島東洋カープ戦では、1点差に詰め寄る適時打を放ち、最終回でも敬遠されたが[[赤星憲広]]がサヨナラ適時打を放ったことでリーグ優勝達成に貢献した。同年の日本シリーズ(対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]戦)では、第7戦[[和田毅]]から三振を喫し、阪神の最後の打者となってしまった。
{{by|2003年}}には規定打席不足ながら打率.341の成績を残した。同年7月23日の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦(阪神甲子園球場)では、11回裏に[[石井弘寿]]からサヨナラ適時打を放つなど勝負強さを発揮した。この年は1番を打っていた[[今岡誠]]の離脱によって、1番・二塁手で先発出場することがあった。同年[[9月15日]]の対広島東洋カープ戦では、1点差に詰め寄る適時打を放ち、最終回でも敬遠されたが[[赤星憲広]]がサヨナラ適時打を放ったことでリーグ優勝達成に貢献した。同年の日本シリーズ(対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]戦)では、第7戦[[和田毅]]から三振を喫し、阪神の最後の打者となった。


{{by|2004年}}は、この年加入した[[鳥谷敬]]の台頭もあって、出場機会が前年の約3分の1に激減。{{by|2005年}}も当初出場機会に恵まれず[[6月10日]]に[[前田忠節]]との交換トレードでこの年から新規参入し、遊撃手の強化が求められた[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]へ移籍。楽天球団として最初の交換トレード移籍で、更に合併編成以外での最初の移籍加入選手となった。楽天では離脱した[[高須洋介]]と入れ替わる形で、2番・遊撃手のレギュラーの座を獲得する。規定打席には到達しなかったものの、打率.313を記録し安打数はキャリアハイとなった。同年8月27日の対[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]戦では、延長10回表に安打を放って[[西口文也]]の完全試合を阻止した<ref>その年のオフに「[[報道ステーション]]」([[テレビ朝日]])のスポーツ特集で“大記録を阻んだ男”という題目で[[インタビュー]]出演した</ref>。
{{by|2004年}}は、この年加入した[[鳥谷敬]]の台頭もあって、出場機会が前年の約3分の1に激減。{{by|2005年}}も当初出場機会に恵まれず[[6月10日]]に[[前田忠節]]との交換トレードでこの年から新規参入し、遊撃手の強化が求められた[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]へ移籍。楽天球団として最初の交換トレード移籍で、更に合併編成以外での最初の移籍加入選手となった。楽天では離脱した[[高須洋介]]と入れ替わる形で、2番・遊撃手のレギュラーの座を獲得する。規定打席には到達しなかったものの、打率.313を記録し安打数はキャリアハイとなった。同年8月27日の対[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]戦では、延長10回表に安打を放って[[西口文也]]の完全試合を阻止した<ref>その年のオフに「[[報道ステーション]]」([[テレビ朝日]])のスポーツ特集で“大記録を阻んだ男”という題目で[[インタビュー]]出演した</ref>。


{{by|2006年}}は楽天の新監督として野村克也が就任し、再び野村の下でプレーすることとなる。開幕こそは2番で迎えたものの、自身の打撃不振、さらには野村曰く「(沖原は)性格的に(2番に)向いていない」と言われたことで下位打甘んじただけでなく、遊撃手と三塁手の併用となる。さらには[[塩川達也]]・[[西村弥]]が台頭したことで交流戦以降は二軍降格となり、そのままシーズンを終える。
{{by|2006年}}は楽天の新監督として野村克也が就任し、再び野村の下でプレーすることとなる。開幕こそは2番で迎えたものの、自身の打撃不振、さらには野村曰く「(沖原は)性格的に(2番に)向いていない」と言われ下位打回される事が多なりポジションも遊撃手と三塁手の併用となる。さらには[[塩川達也]]・[[西村弥]]が台頭したことで交流戦以降は二軍降格となり、そのままシーズンを終える。


{{by|2007年}}は開幕戦で9番・遊撃手に抜擢されて復活が期待されたが、同年[[3月29日]]に新人の[[田中将大]]と入れ替わる形で降格となった。交流戦後に再昇格を果たすが、夏場以降は再び降格して出番がなかった。
{{by|2007年}}は開幕戦で9番・遊撃手に抜擢されて復活が期待されたが、同年[[3月29日]]に新人の[[田中将大]]と入れ替わる形で降格となった。交流戦後に再昇格を果たすが、夏場以降は再び降格して出番がなかった。
85行目: 80行目:
|3||3||2||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||1||0||0||0||0||.000||.333||.000||.333
|3||3||2||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||1||0||0||0||0||.000||.333||.000||.333
|-
|-
|rowspan="4" style="text-align:center;"|[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]
|rowspan="5" style="text-align:center;"|[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]
|64||288||265||32||83||15||0||1||101||23||3||3||10||1||12||0||0||49||6||.313||.342||.381||.723
|64||288||265||32||83||15||0||1||101||23||3||3||10||1||12||0||0||49||6||.313||.342||.381||.723
|-style="background-color: #f3f3f3;"
!style="text-align:center;"|'05計
|67||291||267||32||83||15||0||1||101||23||3||3||10||1||13||0||0||49||6||.311||.342||.378||.720
|-
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2006}}
|style="text-align:center;"|{{by2|2006}}
124行目: 122行目:
|-
|-
|colspan="6" align="center"|-||colspan="6" align="center"|-||64||118||177||6||29||.980
|colspan="6" align="center"|-||colspan="6" align="center"|-||64||118||177||6||29||.980
|-style="background-color: #f3f3f3;"
!style="text-align:center;"|'05計
|colspan="6" align="center"|-||1||0||0||1||0||.000||64||118||177||6||29||.980
|-
|-
|2006
|2006
163行目: 164行目:
{{MLBstats |cube=Yoshinori-Okihara |brm=okihar001yos}}
{{MLBstats |cube=Yoshinori-Okihara |brm=okihar001yos}}


{{Navboxes|title={{Flagicon|JPN}} 野球日本代表
|titlestyle=background-color:#006;color:#fff;
|list1=
{{1994年日米大学野球選手権大会日本代表}}
{{1999 アジア野球選手権大会 日本代表}}
{{第14回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表}}
{{シドニーオリンピック野球日本代表}}
{{シドニーオリンピック野球日本代表}}
}}
{{阪神タイガース2000年ドラフト指名選手}}
{{阪神タイガース2000年ドラフト指名選手}}


{{DEFAULTSORT:おきはら よしのり}}
{{デフォルトソート:おきはら よしのり}}
[[Category:日本の野球選手]]
[[Category:日本の野球選手]]
[[Category:野球日本代表選手]]
[[Category:野球日本代表選手]]
[[Category:オリンピック野球日本代表選手]]
[[Category:オリンピック野球日本代表選手]]
[[Category:日米大学野球選手権大会日本代表選手]]
[[Category:日米大学野球選手権大会日本代表選手]]
[[Category:愛媛県立西条高等学校出身の野球選手]]
[[Category:亜細亜大学硬式野球部の選手]]
[[Category:亜細亜大学硬式野球部の選手]]
[[Category:NTT関東硬式野球部及びその前身チームの選手]]
[[Category:NTT関東硬式野球部及びその前身チームの選手]]
177行目: 186行目:
[[Category:東北楽天ゴールデンイーグルスの選手]]
[[Category:東北楽天ゴールデンイーグルスの選手]]
[[Category:日本の野球指導者]]
[[Category:日本の野球指導者]]
[[Category:愛媛県出身の人物]]
[[Category:愛媛県出身のスポーツ選手]]
[[Category:1972年生]]
[[Category:1972年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:愛媛県立西条高等学校出身の野球選手]]

2024年9月19日 (木) 07:08時点における最新版

沖原 佳典
楽天コーチ時代(2014年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛媛県松山市
生年月日 (1972-07-27) 1972年7月27日(52歳)
身長
体重
177 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手三塁手二塁手
プロ入り 2000年 ドラフト6位
初出場 2001年3月30日
最終出場 2008年8月20日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 東北楽天ゴールデンイーグルス (2013 - 2014)
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 2000年

沖原 佳典(おきはら よしのり、1972年7月27日 - )は、愛媛県松山市出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)・コーチ

来歴・人物

[編集]

プロ入り前

[編集]

松山市立城西中学校から愛媛県立西条高等学校へ進む。2年生の時、三塁手として1989年第61回選抜に出場。1回戦で和田一浩のいた県岐阜商を破るが、2回戦の龍谷高に延長12回の末、敗れた[1]。同年夏の愛媛大会では準決勝に進むが、宮下典明のいた新田高に延長13回の末に惜敗。同年の秋季四国大会は準決勝で高松商に9回サヨナラ負け、この大会の決勝でも新田高に敗れている。翌1990年夏の愛媛大会も準決勝で新田高にまたもや敗退、甲子園には出場できなかった。

高校卒業後は亜細亜大学へ進学。東都大学リーグでは優勝に届かず、1993年秋季リーグの3位が最高成績だったが、同期のエース入来祐作を擁し遊撃手として活躍した。リーグ通算74試合出場で246打数70安打、打率.285、4本塁打、27打点。1994年春季リーグでは首位打者・ベストナインを受賞した。3年後輩の井端弘和とも二遊間を組んだ。また4年秋は入替戦に敗れてチームが1部昇格以来初の2部降格で卒業となる。入来とともにドラフト指名候補ながら見送られる。

卒業後はNTT関東(後にNTT東日本となる)に入社。エース立石尚行を擁し、小笠原道大とともに中心打者として活躍。1996年第67回都市対抗野球大会には小笠原、立石とともに新日鐵君津の補強選手として出場。一番打者として起用され準々決勝に進むが、朝日生命に敗退した。この時のチームメートに松中信彦森慎二がいる。1998年はNTT関東、翌年は統合されたNTT東日本チームの一員として都市対抗に出場する。1998年の日本選手権では決勝で日本生命と対戦、9回裏に決勝打を放ち逆転サヨナラ勝ち、初優勝に貢献し優秀選手に選出されている。2000年第71回都市対抗野球大会には、後にプロでチームメートとなるJR東日本赤星憲広(大学後輩)やプリンスホテル伊達昌司とともに東京ガスの補強選手として出場。1回戦の日本生命戦では先発の土井善和から本塁打を放つなど活躍した。

赤星、土井らと共に2000年シドニーオリンピック野球日本代表(アマ16人、プロ8人で構成)として遊撃手スタメンなどで出場。グループリーグの韓国戦では鄭珉台から先頭打者本塁打を放った(シドニー五輪では2本の本塁打を放つ)。それを見た野村克也阪神タイガース)は、沖原を完全に注目していなかったスカウト陣に苦言を呈し、自ら同年秋の社会人野球日本選手権大会を視察、スカウト陣とともに早期から着目していた赤星・藤本敦士と同様に獲得を決めた。沖原に関してはドラフト当日まで阪神が持っていた情報は少なく、日本代表の遊撃手であることを好意的に解釈し獲得に至ったことを野村克也が漏らしている。

2000年度ドラフト会議にて、阪神タイガースから6位指名を受けて入団。社会人時代に結婚し、沖原のプロ入りに反対する妻を説得して、社会人野球の給料より安い年俸でのプロ入りだったという。野村はかなりの年長での指名を生前気にしていたようであり、沖原本人は後に「現役時代はそんなことはなかったんですけど、僕が引退してからはお会いするたびに、“社会人ならば安泰だったのに、プロに誘ってすまなかったな”と言われました。亡くなる前年にご自宅にお邪魔したときにも、そう言われました……」と明かしている[2]

プロ入り後

[編集]

入団時の背番号は、日本代表でも背負った8だったが、2002年片岡篤史がFAを行使して入団したため、5へ変更された。当初は野村克也が命名したF1セブンの一員として知られていた。なお、野村の著書『野村ノート』によると、沖原は決して足が速いほうではなかったが、セブンの語呂がよかったために一員に入れたと語られている。因みに沖原は後年「F1セブンはいつ終わったのかはよくわからない」としつつも「F1セブン自体は野村さんが退団されたときに消滅した」と定義している[2]

2003年には規定打席不足ながら打率.341の成績を残した。同年7月23日の対ヤクルトスワローズ戦(阪神甲子園球場)では、11回裏に石井弘寿からサヨナラ適時打を放つなど勝負強さを発揮した。この年は1番を打っていた今岡誠の離脱によって、1番・二塁手で先発出場することがあった。同年9月15日の対広島東洋カープ戦では、1点差に詰め寄る適時打を放ち、最終回でも敬遠されたが赤星憲広がサヨナラ適時打を放ったことでリーグ優勝達成に貢献した。同年の日本シリーズ(対福岡ダイエーホークス戦)では、第7戦和田毅から三振を喫し、阪神の最後の打者となった。

2004年は、この年加入した鳥谷敬の台頭もあって、出場機会が前年の約3分の1に激減。2005年も当初出場機会に恵まれず6月10日前田忠節との交換トレードでこの年から新規参入し、遊撃手の強化が求められた東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。楽天球団として最初の交換トレード移籍で、更に合併編成以外での最初の移籍加入選手となった。楽天では離脱した高須洋介と入れ替わる形で、2番・遊撃手のレギュラーの座を獲得する。規定打席には到達しなかったものの、打率.313を記録し安打数はキャリアハイとなった。同年8月27日の対西武ライオンズ戦では、延長10回表に安打を放って西口文也の完全試合を阻止した[3]

2006年は楽天の新監督として野村克也が就任し、再び野村の下でプレーすることとなる。開幕こそは2番で迎えたものの、自身の打撃不振、さらには野村曰く「(沖原は)性格的に(2番に)向いていない」と言われ、下位打線に回される事が多くなり、ポジションも遊撃手と三塁手の併用となる。さらには塩川達也西村弥が台頭したことで交流戦以降は二軍降格となり、そのままシーズンを終える。

2007年は開幕戦で9番・遊撃手に抜擢されて復活が期待されたが、同年3月29日に新人の田中将大と入れ替わる形で降格となった。交流戦後に再昇格を果たすが、夏場以降は再び降格して出番がなかった。

2008年は開幕を二軍で迎え、5月中旬に渡辺直人の離脱によって昇格を果たすもののすぐに再降格となった。そのまま再昇格することなく同年10月1日に戦力外通告を受け、現役を引退。

現役引退後

[編集]

引退後は楽天の球団職員として、「楽天イーグルスベースボール・クラブ」のジュニアコーチとして野球指導を行った。その後、2012年に楽天ファームディレクターに就任した。2013年からは二軍打撃コーチ、2014年は二軍内野守備走塁コーチを務めた[4]2015年からは同球団の北関東地区担当のアマ・スカウトを務める。

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
2001 阪神 71 246 218 24 43 8 1 4 65 14 2 1 4 1 20 4 3 48 3 .197 .273 .298 .571
2002 63 137 121 12 30 6 1 2 44 8 1 0 13 0 3 0 0 26 3 .248 .266 .364 .630
2003 64 137 123 16 42 8 0 1 53 17 3 2 5 1 7 1 1 20 0 .341 .379 .431 .810
2004 21 25 24 3 6 1 0 0 7 2 2 1 0 0 1 0 0 8 0 .250 .280 .292 .572
2005 3 3 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 .000 .333 .000 .333
楽天 64 288 265 32 83 15 0 1 101 23 3 3 10 1 12 0 0 49 6 .313 .342 .381 .723
'05計 67 291 267 32 83 15 0 1 101 23 3 3 10 1 13 0 0 49 6 .311 .342 .378 .720
2006 60 203 186 16 38 4 2 0 46 12 3 2 8 1 7 0 1 29 8 .204 .236 .247 .483
2007 6 21 18 2 3 1 0 0 4 0 0 0 1 0 0 0 2 4 0 .167 .250 .222 .472
2008 14 34 33 2 8 1 0 0 9 0 0 0 0 0 1 0 0 9 0 .242 .265 .273 .538
通算:8年 366 1094 990 107 253 44 4 8 329 76 14 9 41 4 52 5 7 193 20 .256 .296 .332 .628

年度別守備成績

[編集]

二塁 三塁 遊撃




































2001 - 1 0 1 0 0 1.000 70 113 194 10 34 .968
2002 - - 58 61 117 8 23 .957
2003 15 28 23 2 5 .962 36 7 18 1 2 .962 15 16 21 2 4 .949
2004 - 11 1 5 0 0 1.000 2 0 2 0 0 1.000
2005 - 1 0 0 1 0 .000 -
- - 64 118 177 6 29 .980
'05計 - 1 0 0 1 0 .000 64 118 177 6 29 .980
2006 - 9 4 9 1 0 .929 54 74 143 6 30 .973
2007 2 2 4 0 0 1.000 - 4 5 7 1 0 .923
2008 - 4 0 4 0 1 1.000 5 3 11 0 2 1.000
通算 17 30 27 2 5 .966 62 12 37 3 3 .942 272 390 672 33 122 .970

記録

[編集]

背番号

[編集]
  • 8 (2001年)
  • 5 (2002年 - 2005年途中)
  • 32 (2005年途中 - 2008年)
  • 81 (2013年 - 2014年)

脚注

[編集]
  1. ^ 「選抜高等学校野球大会65年史」毎日新聞社編 1994年
  2. ^ a b ノムさん「プロに誘ってすまなかったな…」あれから20年、阪神・F1セブンの元メンバーが明かす“野村監督とのその後”(3/3ページ) Number Web 2021/06/21 17:03 (2022年8月29日閲覧)
  3. ^ その年のオフに「報道ステーション」(テレビ朝日)のスポーツ特集で“大記録を阻んだ男”という題目でインタビュー出演した
  4. ^ 2014年シーズンの1軍・2軍コーチングスタッフに関して楽天球団公式サイト 2013年11月22日配信

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]