コンテンツにスキップ

フレデリック・ウィレム・デクラーク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フレデリック・ウィレム・デクラーク
Frederik Willem de Klerk ノーベル賞受賞者


任期 1989年8月15日1994年5月10日

南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国
(アパルトヘイト廃止後)
初代 副大統領
任期 1994年5月10日1996年6月30日
元首 ネルソン・マンデラ

南アフリカの旗 南アフリカ共和国
国民教育相



出生 (1936-03-18) 1936年3月18日
南アフリカの旗 南アフリカ連邦 トランスヴァール州ヨハネスブルグ
死去 (2021-11-11) 2021年11月11日(85歳没)
南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国 西ケープ州ケープタウン
政党 国民党(1967-1997)
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1993年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:アパルトヘイトの廃止

フレデリック・ウィレム・デクラークアフリカーンス語: Frederik Willem de Klerk [ˈfriədərək ˈvələm də ˈklɛrk]1936年3月18日 - 2021年11月11日[1])は、南アフリカ共和国政治家

「デクラーク」は英語読みで、アフリカーンス語では「デクレルク」と発音する。

大統領(第7代)、副大統領(アパルトヘイト廃止後初代)、下院議員国民党党首(第7代)を務める。アパルトヘイト体制の解体、アパルトヘイト関係法の廃止に大きな役割を果たした。2023年現在、サハラ砂漠以南のアフリカ大陸諸国で正式に大統領に就任した最後の白人である[注 1]

概要

[編集]

生い立ち

[編集]

国民党 (NP) の政治家で大統領を務めたこともあるヨハンネス・デクラーク英語版の息子として、ヨハネスブルグで生まれる。1958年ポッチェフストローム大学の法律科を卒業。

政界

[編集]

弁護士を経て、1972年国民党 (NP) の国会議員に選ばれ、父の後を継いで政界入りをする[3]1978年に郵政相として初入閣し、その後1982年に内相、NPの旧トランスバール州代表に選ばれた。1984年からは国民教育相、白人閣僚評議会議長を務めた。

大統領

[編集]

1989年2月、大統領のピーター・ウィレム・ボータの後任としてNP党首に指名され、その後正式に大統領に選出された[4]

大統領に就任したデクラークは今までの国民党の方針を転換し、黒人達との交渉によって南アフリカの将来を決めていくといった現実的で柔軟な民主改革路線をとった。その政策方針により、アフリカ民族会議(ANC)やパン・アフリカニスト会議英語版(PAC)、南アフリカ共産党英語版(SACP)の非合法化を解除し、ANC指導者のネルソン・マンデラを釈放した。

1990年6月には非常事態宣言も解除して、1991年2月には、国会演説ですべてのアパルトヘイト法を廃止すると宣言し、6月には人口登録法原住民土地法英語版集団地域法英語版を廃止した。これによりアパルトヘイトが法律上なくなった1993年、マンデラと共にノーベル平和賞を受賞した。

大統領退任後

[編集]

1994年5月にマンデラ政権が発足すると副大統領に就任するが、1996年6月30日に副大統領を辞任し、連立から離脱。翌1997年9月には、国民党党首も辞任して政界から引退した。

2020年2月初旬には「アパルトヘイトは人道に対する罪ではなかった」「アパルトヘイトが人道に対する罪だという考えは、白人の南アフリカ人に汚名を着せるために仕組まれたものだ」と主張し批判を浴びた[5]。17日に発言を撤回し、謝罪している[5]

晩年は中皮腫癌との闘病生活を送り、2021年11月11日、ケープタウンにある自宅で85歳で死去[3][6]シリル・ラマポーザ大統領は4日間喪に服し、半旗を掲揚するよう指示した[7]

死後、デクラークの財団から「最後のメッセージ」としてデクラークが7分間に渡って語る動画が公開された[8]。動画内では、

若いころにアパルトヘイトを擁護していたのは事実だ。しかし1980年代の初頭に考えがまるっきり変わった。まるで改心したかのようにアパルトヘイトが間違っていると気付いた(略)何度も謝罪したが信じてくれない人もいた。この最後のメッセージで繰り返させてください。アパルトヘイトが有色人種の人たちに与えた痛みや屈辱について無条件で謝罪します(略)私たちが手を取り合い知恵を出し合えば南アフリカは直面する課題を克服し、極めて大きな潜在能力を発揮できると強く信じている。どうかその勇気と工夫が示されますように。

と、アパルトヘイトへの反省と南アフリカの発展を願ったコメントを遺した[8]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ ただし、2014年10月から約3ヶ月間、ザンビアで白人のガイ・スコット英語版副大統領がマイケル・サタ大統領死去に伴い、暫定大統領に就任した例はある[2]。またアフリカ州に属する島国を含めると、セーシェル大統領のフランス=アルベール・ルネら、モーリシャス大統領のポール・ベランジェ英語版らも白人である。

出典

[編集]
  1. ^ “F・デクラーク氏死去、85歳 白人最後の南ア大統領、ノーベル平和賞”. 時事ドットコム. 時事通信社. (2021年11月11日). オリジナルの2022年9月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220927161745/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021111101124&g=int 2022年9月28日閲覧。 
  2. ^ “ザンビア大統領死去、白人のスコット氏が暫定大統領に”. CNN.co.jp (CNN). (2014年10月30日). https://www.cnn.co.jp/world/35055909.html 2015年9月22日閲覧。 
  3. ^ a b 遠藤雄司 (2021年11月11日). “南アフリカのデクラーク元大統領死去 アパルトヘイト政策を廃止”. 朝日新聞デジタル. オリジナルの2022年9月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220927160724/https://www.asahi.com/articles/ASPCC6KRZPCCUHBI02P.html 2022年9月28日閲覧。 
  4. ^ Simon Sebag Montefiore; 平野和子. 世界を変えた名演説集 その時、歴史は生まれた. 清流出版株式会社 
  5. ^ a b 石原孝 (2020年2月19日). “「アパルトヘイトの擁護者」元大統領に批判殺到→謝罪”. 朝日新聞デジタル. オリジナルの2022年9月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220927162213/https://www.asahi.com/articles/ASN2M77KMN2MUHBI01Q.html 2022年9月28日閲覧。 
  6. ^ “South Africa's last white president, FW de Klerk, dies at home”. ロイター. (2021年11月11日). https://www.reuters.com/world/africa/safricas-last-white-president-fw-de-klerk-dies-hospital-2021-11-11/ 2021年11月11日閲覧。 
  7. ^ McCain, Nicole (2021年11月16日). “Ramaphosa declares national mourning period for FW de Klerk” (英語). News24 (ケープタウン). https://www.news24.com/news24/southafrica/news/ramaphosa-declares-national-mourning-period-for-fw-de-klerk-20211116 2022年9月28日閲覧。 
  8. ^ a b “南ア デクラーク元大統領死去 アパルトヘイト撤廃でN平和賞”. 日本放送協会. (2021年11月12日). オリジナルの2022年9月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220817153410/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211111/k10013344661000.html 2022年9月28日閲覧。 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
  • The FW de Klerk Foundation
公職
先代
ピーター・ウィレム・ボータ
南アフリカの旗 南アフリカ共和国大統領
第7代:1989年 - 1994年
次代
ネルソン・マンデラ
先代
(新設)
南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国副大統領
(アパルトヘイト後)初代:
1994年 - 1996年
次代
タボ・ムベキ
党職
先代
ピーター・ウィレム・ボータ
南アフリカの旗 国民党党首
第7代:1989年 - 1997年
次代
マーチナス・V・シャルクウィク